2008年09月26日

ロシアの石油

(旧ソ連の)エネルギー資源は、帝政ロシアからロシア革命以後の社会主義経済建設過程において、原動力として貢献し続け、1991年末の社会主義経済体制崩壊後のロシアにおいても経済の要としてますます重要な役割を果たし続けている。

 石油の産出地域として脚光を浴びるようになったのはアゼルバイジャンのカスピ海に突き出たアプシェロン半島である。この半島にはバクー市が位置するが、この市の周辺に何世紀も前から油兆がみられていた。

石油の生産が開始されたのは、1813年にアゼルバイジャンがロシアに併合されてからのことである。当時のロシアの石油開発技術は後進的で、1860年代末までは手掘りで石油が汲み出されており、ロシア帝国政府はこの石油産業を直轄産業として独占支配していた。

1870年に入って帝国政府が独占を放棄したことによって私企業の競争関係が生まれ、本格的な石油開発の夜明けを迎えた。その後ボーリング量が増えるに伴って産出量は急増することになる。

1870年代初めになってやっと馬を使って井戸から石油を汲み上げる方法が普及するようになり、さらに1880年代末からは蒸気機械が導入されるようになった。このように、石油生産が手掘りから機械掘りに移行したことや外国資本が直接開発に加わったことがバクー油田の増産に大きく貢献した。

 このような増産は、主に外国資本の手によって実現されたのであり、ノーベルの存在が大きい。ノーベル兄弟によるノーベル・ブラザーズ石油開発会社は資本金300万ルーブルで1879年に設立された。1901年に、バクー油田開発で得た資金によってノーベル賞が設けられた。

 一方、バクーにおけるブンゲとパラシュコフスキーの2人の生産者は、ノーベル社の北方ルートに対抗してバクーからコーカサス山脈を超えて黒海沿岸の町バツーミに石油を輸送する鉄道建設に着手し、これに資金援助したのはフランスのロスチャイルド家である。そのおかげで1883年に鉄道が完成し、「カスピ海・黒海石油販売会社」を設立した。

 ロシア国内の市場に限界をみたノーベル社もヨーロッパの市場に積極的に進出し、販売競争は激化した。これに拍車をかけたのは米国スタンダード石油の進出である。ロシアの灯油がヨーロッパ市場で米国産灯油と競合するようになると、スタンダードはダンピングで対抗し、市場の争奪戦が展開された。三つ巴の競争のなかで、バクー油田の生産量は、1901年にピークを迎えた。当時、ロシアの石油のほとんどはバクー油田から産出されており、例えばピーク時の1901年の生産量はロシア全体の95%を占めた。[後略]

 以上のような最近の経過と過去の歴史的事実を通じて見えてくるのは、アメリカ、または英米を中心とする国際石油独占の19世紀以来の執念と近未来戦略である。

 ロシアを抱き込んで、カスピ海周辺の石油・天然ガス資源を確保できれば、五月蠅いサウジやイラクを、はるかに上回る量の「スペードのエース」、「オールマイティ」を握ることになる。金輪際、負ける心配なしとなり、ポーカーフェイスのブラフの技術すら必要なし、どこまでもせり上げが可能になるのである。

 しかも、ここで、カスピ海石油資源の金主として「フランスのロスチャイルド家」が出てきた。同家は、先に紹介したように、パレスチナの土地取得にも金を出していた。イギリスのロスチャイルド家の当主は、世界シオニスト機構イギリス代表でもあったが、懐が寂しいイギリス政府にスエズ運河利権買収の資金を出し、それを交換条件にして現イスラエル建国への歴史的転換点をなす「外務大臣バルフォア」からのhomeland実現約束の手紙を確保していた。つまり、石油、パレスチナの土地、中東と東西交通の要衝スエズ運河、これらのすべてに前もって、ロスチャイルド資金が投入されていたのである。

 3000年の歴史を誇るユダヤ人の中心組織が、無駄に資金を投入し、手をこまねいているわけはない。いずれ、それらの投資が、巨大な成果を生むことを期待し、見張ってきたに違いない。もちろん、お得意の情報収集に基づく謀略の限りが尽くされたのである。
posted by 伊藤園 at 01:32| Comment(0) | ユダヤ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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